スーパーナチュラルシステム

 

誕生物語

                お時間のある時に、ゆっくりお読みくださいませ!

 

 

生来の生き物好きでした。

小さな頃は、町でネズミを見れば「あ!ミッキーだ!」と喜び、山でヘビに出会えば必ず追いかけて一度は捕まえ「売ろうか?飼おうか?」迷い、海へ行けばずんずんと食べ物を探しあて「お!ウニだ、喰おう」「お!牡蠣だ!焼こう」「アワビだ!喰っちまおう」「ホッキだ!焼こう」

と、まるで野生児のようでした。

 

産まれは北海道の足寄町らしいですが、産まれてすぐに札幌あたりに引っ越したらしく覚えていません。

昨年は東京農大の学生さんが足寄町へ行ってきてくれ、駅前の画像やオホーツク海沿岸の画像を下さいました。

小学校1年生の3学期あたりまで、北海道で有数の実業家の家でした。両親は事業経営が得意だったらしく、不動産、キャバレー、雀荘、カレーショップ、とんかつ屋、スナック、ディスコ、司法書士事務所、企画事務所、パチンコ屋などをしていました。

そんな家は、20部屋以上ありダイニングは広大で召使さん?みたいな人がたくさん居て「お坊ちゃま」と呼ばれていました。

高麗人参、キャビアなどがみそ汁の具にまで様々入ってきて「もう食べたくない」と泣いて召使さんに頼んでいた毎日でした。

そんな1年生のある日、突然両親は消えていなくなりました。家に一人いてご飯の食べ方も知らず、冷蔵庫を開けることもわからず、ひたすら両親の帰りを待ち学校へも行かず一週間経つと、胃が痙攣して自分の身体じゃないような震えから、お腹をコブシで「言うことを聞け!俺の体」と力任せに殴っていました。口から赤い血が出て意識が遠くなっていたら血の中に懐かしい両親との思い出が走馬灯のように走っていました。「楽しかったな。幸せだったな。こんないい気持であの世へ行けるんだな。」

と、窓を叩く音がして少し覚醒したらお寺の坊さんの息子が助けに来てくれました。名前は”ほうしゅう君”です。救急車で搬送された後は何も覚えていなく、何も考えられなく、ただ生きてるだけ。あちこちを小さな体で歩いて補導、歩いて補導を繰り返していたら、普通なら小学5年生くらいか6年生くらいの年齢になっていたようです。

木の年輪のようなものが、僕の骨にはできてるんだ。だって食べない期間が多すぎたから。

そんな思いに耽っていると、どこからか母に会うことができ、中学校へ進学することができた。母は男漁りのうまい人で、次々と男を換えていった。そして毎回のド貧乏だった。ただ中学校は3年間行くことができた。

教科書を与えられ初めてする勉強。初めてのお友達。初めての先生との会話。初めてだらけだった。

そういえば、まともに学校行ったのは中学校3年間しかない。という極端な3年間学歴となった。

 

いろんな面白い生活行脚から解放され、きずけば23歳くらいのとき、八百屋さんを店として開業しました。28年くらい前です。

その以前は、車に野菜を積んで売り流す「ひき売り」や、朝4時から8時まで行う「あおぞら朝市」をしていた。

通常、市場では朝8時くらいから競り(セリ)を始めますが、その時間は朝市に行っていたので、市場のみんなが店へ帰る頃に私は市場に戻り、売れた分の集計と片付けをしていたので、「いいなぁもう仕事終わったの!?」と言われていました。

心の中では「いやいや、夜中の12時から市場で仕入れして、2時から朝市の準備スタートなんだけどねw」そんなに甘くない。

 

店を開業した直後から波乱含みでした。当時はちょうど「ダイエー」「イトーヨーカドー」など色々の「スーパー」が出店ラッシュの時代背景だったんです。地域の青果市場に仕入れに来る八百屋さんは私のところでは約200件でした。そのほか肉屋さん、魚屋さんなど大勢がいました。

しかしスーパーの出店ラッシュによる特売チラシの勢いは増すばかりで、ほんの2年ほどで160件も廃業したのです。

次は家の番かと、八百屋、肉屋、魚屋は、生きた心地もしないありさまだったのです。さらに1年後その半分ほどが廃業しました。

 

次は家の番ではなく、次は青果市場が無くなる番をむかえました。どんなに縮小しても持ちこたえられなかったのです。

 

この間に廃業した方の中には自殺した者、夜逃げした者、上手に整理し里帰りした者、と様々な人間模様がありました。

 

さて私は、青果市場に来ていたお百姓さん、それと誰からともなく知り合えた遠い産地の農家さんの伝手から、直接買い取りをしながらどんどん仕入れ先を変え「スーパーで手に入らない物。そして最強にうまい野菜と果物」を勉強しながら売るようにしました。

 

ある朝、お百姓さんの畑に入ってホウレンソウの間引きを手伝い、お店へ帰ろうと長靴を履いたまま車の側まで歩いて行こうと畑を出た時に、お爺さん百姓にこう言われたんです。

 

「その土は家の代々の家宝だから、長靴の底に着いた土を取って、畑に返してくれ」と。

 

そうか!この真っ赤でたくましい根を持つホウレンソウは、この土が育てているんだ。どおりで甘くておいしい。納得。

それからは、どんな畑でも土造りを見て、観察するようになりました。

人工的な栽培肥料、除草剤などにいっさい頼らない手間の栽培。

その先には土を天然で肥やす「土壌微生物の生態系」を代々守ってきた誇りがあったのです。

それこそが本物の味を出すお野菜を作り出す秘訣でした。

そのように「手間の栽培」をする畑や田圃には沢山の生物がいます。

タガメ、タイコウチ、ミズカマキリ、ゲンゴロウ、ドジョウ、アマガエル、ホタル、ミミズ、モグラ、メダカ、サワガニとかが普通に。

 

気が付くと、天然の微生物を大事にしなく、肥料と除草剤を添加する手法の昨今の大部分の農業は何なのか?

うまい言い方の無農薬有機栽培って、どのくくりで言ってるのか?

それと似て、水槽で飼育される生物の濾過循環も、水を換えながら、色々の添加剤を普通に使っている飼育方法って、何なのか?

 

スーパーナチュラルシステムにたどり着くための”気付き”を与えてくれたのは、

 

お爺さん百姓に言われた「土は代々の家宝」からでした。

 

私自身はもちろん水棲生物の飼育も大好きでした。

本はなんでも専門書でした。足りない資料の本は古本屋で探しました。

 

「土の事、植物の事」

「あらゆる国の自然環境の事」

「海の事、海の生き物の事」

「空の事、お天気の事、台風の事」

「地底の事、原油の事」

「人体の事、健康の事」

「山と海のつながりの事」

「火山の事、噴火の事」

「進化の事、退化の事」

「化学の事、成分の事、鉱物資源の事」 などなど

 

どれもが微生物と関りを持って、どこか面白い!と趣味で始めた勉強でした。

それが面白すぎて、

けっきょくのところ地球って微生物が養っているんだ。

原油もそうだ。2000年には枯渇するはずだったが、いまだにどんどん湧き出る。これこそが微生物からの恩恵なんだ。

人の体も全く同じで、体内の微生物の働きを正すことで健康にもなり、その逆もあるんだ。

 

いろいろの気付きを与えてくれる根源は「微生物の働きを、ただひたすら信じて、正しく理解する」たったこれだけだった。

 

おもしろい、地球環境のなせる業を、ちょっとお話ししましょう。

昨今は世界中で台風やサイクロン、大雨、長雨による洪水、噴火、地震など、あらゆる国のあらゆる場所で猛威をふるっています。

昔、地球温暖化が取だたされた1980年代は「酸性雨による森林の立ち枯れが進み、山が健全でなくなった!」と騒いでいました。

山の木が酸性雨で枯れると、枯れ木は折れ、やがて山の土へ返ります。土へ返す役割は土壌微生物がじんわりと行い、ミネラルを山全体に行き渡らせ肥やしとなり、新たな芽吹きをもたらし山を蘇らせます。ミネラルはやがて小川で合流してから大河へ落ち、海へと落ちます。海では最初、立ち枯れとなった木々からもたらされた栄養分を基に、海底の土壌微生物を積算させ、新たな魚介類や藻類などの仔魚達が食べる微生物群の栄養となるのです。

 

 

 

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